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マルマのあゆみ
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昭和21年創業 人で言えば古希を迎えてなお盛んな「マルマテクニカ株式会社」。長く親しまれてきた旧社名「マルマ重車輛株式会社」の方が印象が強い方もまだ多いかもしれません。
ここでは、弊社のあゆみをお話しします。建設機械の整備から始まった会社が、徐々に業容を広げて今に至った経緯です。



社名が語る・・・設立の経緯

「マルマ」ってマルマンの関係会社?とか、丸紅の子会社?と聞かれることがあります。たしかに「まるま」というネーミングは外部の方には奇妙に響くようです。そこで、社名の由来を御紹介します。

一口に言えば、戦前の国策「マルマ計画」に従事した満州の日本人の救済を目的として、戦後に政府主導で計画された「マルマ計画帰還者救済共同組合」から名前はとられました。残念ながらこの共同組合は日の目を見ずに終了しますが、その計画のひとつであった整備工場の構成員が中心となって設立したのが「有限会社 マルマ車輛整備工場」で、これが今のマルマテクニカ株式会社となりました。そこの事情を「50周年史」から抜粋してみましょう。

太平洋戦争中の昭和18年11月、東條内閣により設置された軍需省内に、日本から満州(現・中国東北区) へ航空機産業を移駐する計画(満州の頭文字のマを丸で囲んだ略称でマルマ計画と呼ばれた)を遂行するために、マルマ班と呼ばれる課が設置され、 終戦時には家族を含めた約5万人の日本人がマルマ計画により渡満して航空機産業に従事していた。戦後、これらの日本人が職場から追放されて身 一つで帰国してきた。・・・(中略)

このマルマ計画帰国者の救済を目的として、戦後の昭和20年10月に商工省(現・通産省)内の一室にマルマ班の班長であったS氏が、 後に東京都知事になられた美濃部達吉氏を理事長として、「マルマ計画帰国者救済共同組合」を作り、主として解散された旧軍隊の施設を利用し、 農場・各種の工場設立及び軍用車の払い下げによる運送業などを興して、帰国者に職を与えることが計画された。・・・(中略:縁があり集まっ たメンバーが準備の為に整備技術取得と施設整備に奔走する)

昭和21年8月に入ってまもなく、商工省内のS氏より連絡があり、旧軍隊の施設内で軍服を着た人達が働いているのは軍隊の再建計画の 一端と誤認されて、占領軍総司令部(GHQ)より呼び出されマルマ計画帰還者救済の趣旨を説明したが受け入れられず、「共同組合は国との関係を 絶つことと、傘下事業体は各自独立して私企業となるか、解散するか、何れかの方法を選べ」と命令されたとのことで、我々も対応を迫られること になった。・・・(中略:メンバーが会社設立を決意する)

一番簡単に設立できるのは有限会社であるとのことで、それで良かろうということになり、名前については「我々は戦争で多くの戦友に 戦死され、勤めていた職場も失い、戦争の悲惨さを身に持って体験している。ここにいる者は全員戦争の犠牲者である。戦争のない世の中を築く のと、戦災で焼け野原と化した日本を再建するのが生き残った我々の義務であると思う。我々はマルマ計画の犠牲者救済の為にここに集って職場を 建設中であり、戦争の悲惨さを忘れないためにも、マルマの名前を残そうではないか」との意見により、「有限会社 マルマ車輌整備工場」の名前が 全員一致で決定され、・・・(後略:これにより総勢13名で昭和21年9月11日に設立登記された)


長い引用となりましたが、名前の由来と創業の経緯をおわかりいただけたでしょうか。
毎年受け入れている小学生の工場訪問で、社名の由来を問われて、 困ってしまう状況もおわかりいただけると思います。


        
会長が語る・・・草創期の苦労
前節の後の話で、マルマ創立直後の状況をご説明するにあたって、創立記念日に故会長が語られた一節を紹介します。 話し言葉をほぼそのまま移しましたので、読みにくい点はご容赦ください。

おはようございます。54周年目の記念日だから、おめでとうございますと言うべきかも知れません。 もう1年で55周年、丁度21世紀が来年から始まります。今年は20世紀の最後の年、それが昨日で終わって21世紀に入る最初のときと言うべきですか、新たなる出発、21世紀へのマルマの新たなる出発の期日が、今日から始まると言っても良いでしょう。マルマは、時代の必要に応じて仕事をしてきた、その時代の一番役に立つ事を、我々の出来る事で皆が困っている事を、我々の力で解決してあげる、そういうことによって54年間を生き抜いてきたわけです。マルマだけで、何かをやって出来るわけは無いし、ここまで育ってこられたわけでなし、又前の年と同じ事を、同じように繰返していては54年間も絶対に続きません。

ここで、創立時をちょっと振り返ってみると、最初は本社のあるここは焼け野原になっていましたから、その焼け野原をならして開拓しました。そのうちの一つは、隣にある東京農業大学これは昔は陸軍機甲整備学校でした。隣の桜丘中学校も陸軍機甲整備学校で、東側の農大付属第一高校も機甲整備学校に付属した陸軍の機甲技術の研究所だったのです。農大のキャンパスは、兵隊の訓練や自動車,トラクター,戦車の運転を教え、それら3種類の軍用車輌の整備を教える学校でした、それを東京農大という大学に直す仕事もマルマがやりました。前の農大の野球場,サッカーのグラウンド,その間のテニスコートになっている所に教材用として使っていた自動車,トラック,戦車,牽引車その他昭和20年8月14日戦争が終わる一日前に、三菱重工業からの納入された最新式の戦車45台、全部合わせたら約1000台の車がびっしり並んでいました。

私達が、当時はマルマ帰還者救済協同組合、マルマという組織の一員として、満州から帰ってきた人達を教育する為に、ここに昭和21年6月18日に入ったときには、米軍が4月1日まで占領していて、戦車,牽引車には、全部エンジンに火を付けて焼いてあって皆動けませんでした。その中の、牽引車のエンジンを何とか整備して、排土板を付けて改造のブルドーザを作ったのです。当時は、ゼネコンもブルドーザを持っておらず、ブルドーザを使用していたのは、陸軍か海軍だけで、それが建設省,運輸省,農林省に渡されただけで、役所しか建設機械を持っていませんでした。米軍が払い下げてくれるようになった23年頃からは、一般の日本人の手に入るようになりました。そのブルを建設省か農林省に払い下げる、彼らは整備する能力が無いからマルマに持ってきて,マルマで整備して試運転したわけです。

試運転の場所に、今は無くなっていますが、農大のテニスコートの所に全体を見渡し隊長が指揮をする、ちょうどコップをふせたような丘があって、また中学校の校庭には弾薬庫があり、その周囲に爆発しても周囲に飛ばないように高さが10m位ある土手が築かれていました、それらを崩す作業をしてうまく崩したので、試験に合格ということで結局真平らにした。それから、この裏、今は小学校になっていますが、まだ小学校は無く、桜丘中学校とマルマとの境、農大との境の道は川でした、その川が流れ込んで経堂の方に流れていた、そのこちら側いまの小学校のちょうど半分ぐらいのこちら側は単なる畑で、イタチがすんでいた、ここを小学校の校庭にするという話が区役所からでて、結局マルマが全部無料で平らにしてあげました。マルマとしては完成した修理車の試験場として使ったわけです。そういうような、建設機械のオーバーホールということと、小型の戦車と牽引車をブルドーザに改造するという今で言うところのアタッチメントの製造ということをやったわけです。

昭和22年には米軍がジープ, ウエポンキャリヤ,ダンプトラック等を払い下げて、その時、マルマは東京の自動車整備組合に入って、整備組合がそういう仕事を運輸省から請け負って東京中の修理工場に分けていました。マルマと、今はなくなってしまった東急自動車という会社とで、22年だけで約100台位、マルマが40台東急が50台、マルマは、大型車や複雑なクレーン車の修理をやらされた、マルマはそのようなことが出来ると言う事で、かなり高い工賃をもらったので22年は何とか飯が食えました。

昭和23年になったら、自動車業界を復興させなければならないという事で、自動車の払い下げが中止になってしまった、という事は我々のところにくる修理の仕事も、中止になってしまった。それで最初の社長の田中とか保坂とか、私の中学時代の同級生が、皆辞めていってマルマを放り出して出てしまった。飯が食えなくなってしまった、それにくわえて大蔵省からこの土地を116万いくらで払い下げるから払えといってきた、とてもそんな金は無い、当時我々の給料は、21年に大体120円、22〜23年でインフレが進んでいて平均で300円位は払っていましたから、とてもそんな大金は払えない。

この、マルマにおとずれた最初の危機に、マルマを続けていってくれ、解散しないでくれ、と皆に頼まれて私が社長になって、建設省や運輸省とかに中学時代の同級生や海軍の時の同期生がいましたので、その人達をたずねていくと、池貝自動車がディーゼルエンジンを探している話が出た。池貝そのものは今のコマツの川崎工場ですが、米軍が占領していてエンジン工場が使えない、だからエンジンが造れないので、軍に納入していたエンジンを探してくれと建設省に頼んでいたのです。池貝は、モータグレーダを設計してそれのエンジンに使う予定でした。幸いなことに、元の社長の田中はマルマという名前のもとになる満州に航空産業を移駐する計画をやっていた班員で技術大尉でした、戦時中は軍需省から商工省に配置替えになり商工省から派遣されてきていたので、トラックなどの払い下げを申請するとぜんぶ申請が受け入れられた。もとの東京工場の、ガラスや材木が全部持っていかれて無いのを、田中が申請をして、公定価格で購入する事ができて工場を再建できた。当時はそういう縁も無くなってしまっていましたが、彼の随一残していった池貝のディーゼルエンジンの付いた普通のトラックをマルマがもっていた。それからたまたまこのエンジンの補給用にと本所の堅川町にある解体業者から1万円で買ったエンジンと、構内に1台エンジンが転がっていた、そのトラックのエンジンを外して売りました、エンジン1台20万円で大倉商事に収め、大倉が22万円で池貝に売る、お陰で3台のエンジンをオーバーホールして原価10万円位が60万円で納入した。 それで会社が始まって以来一度も貰ってなかった私の給料も貰ったし、社員にも月3回に分けて払った給料もその月だけは、まとめて一括現金で払うことができました。

それから建設機械の大元だからと建設省にでかけて、今で言う情報ですか、情報の先取りみたいなもので、私が建設省、農林省、機械化協会にいって、23年から始まった米軍の払い下げのD7を中心とするブルドーザ,ショベルの修理の話を聞きました。私は戦後米軍に勤めていたし、ブルの解体マニュアルの翻訳までやりました、と翻訳した原稿も見せて、マルマでできますよというと、それではマルマに出そうという事になり、日本中の県の土木部に配属されたブルドーザの修理を、東京のマルマに送ってきた。そういうことで、昭和30年までは食べることができたわけです。

(この後もずっと続きましたが、省略します。)



上記スピーチ時の故会長の姿

当時、彼は3ヶ月後に社長勇退を控えていました。現職のうちに、心ゆくまで社員の前で語って貰おうと、事実上の本社であった相模原事業所で、 全員が着席してお話しを集中して聞けるようにしたのです。その9ヶ月後、会長は突然の病で死去し、結果として、これが多くの社員の前で語る最後の場面 となりました。




写真が語る・・・あの頃のマルマ
次のページでは、 戦後まもなくのマルマ誕生直後の写真の何枚かをご覧に入れます。 「日本の戦後」の雰囲気をこれで味わってみてください。

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